10月の終わりに
先週の月曜日に左足を手術した。
「たいした手術ではない」と、医者に言われて安心し、全身麻酔し、手術を受けたのだが、実際には手術後に痛い目にあった。
毎日足が痛いのです。じんわりと、しかし、明らかに痛いのです。おかげで、この1週間あまり、寝たり起きたりの老人的日々。。
仕方がないので、本を読みました。
❶網野義彦の「日本の歴史をよみなおす」は、日本史の中世(江戸以前)のイメージを覆す、というもので、なかなか面白かった。
杉浦日向子の著作によって、江戸時代のイメージが覆ったのが、今世紀の初め頃であった。(日向子さんの珠玉のマンガとエッセイ!)そして今回は、網野さんの研究・労作によって、中世日本のイメージが、「明瞭になった」という感じですね。
昔の多くの人は農民であった、というイメージは、間違いだったのだ!!海人、山人、坊さん、遊女、各種職人など雑多な生き様を生き生きと感じてみなくては!と、痛感したのだった。
要するに「工夫する人々」というイメージである。大きな流れに身を任せながら、その波の中で「工夫する人々」。
get up! stand up! stand up for yourself! ですね。
❷長沢節の「弱いから、好き」は、以前から気になっていた「長沢節」という人を知りたい、という興味からの読書であった。デッサンが巧いセツさん、気になる人なのでした。
男性女性という「性」が、断絶したものではなく、連続したものである、というのは、50代も仕舞いの頃となった現在のボクの見解であるが、セツさんの文章から読み取れる「性」へのアプローチ(モノ・セックスという言い方が適切かどうか?は、別として)も、この先の時代を清らかに見通している、と思われる、のでした。
❸鈴木大拙の「東洋的な見方」は、なんというか、短文集だが、名品というべき本だ。
明治の初めに生まれ、96歳まで生きた大拙が、1960年代になって最終的にたどり着いた「見方」である。
これまで大拙の本を何回か読みかけ、その都度読み終えられなかったのだが、この本はいちいち「腑に落ちる」のだ。
東洋といい、西洋という、その「差」に着目して、彼我の「差」を「見る」。
その「差を見る」ということが出来るかどうか?あるいは、その「差を見るところ」から何が生まれてくるのか?という重要な問いかけがなされている、とボクは思った。もっと「東洋」を知らないといかんな!
しかし今、東洋とか、日本とか声高に言う人ほど、東洋も日本も理解していないんじゃないかな?
多くの人は、老子とか、荘子とか、禅とか、一遍とか、親鸞とか読んだ事もなく、考えたこともないんじゃないかな?
(日本のリーダーとか言っているヤツとか、中国やその他アジアのリーダーたち?であるとか、もしも東洋を知っているなら、皆あんなバカ面ではないはずだぜ。)
なんだか最近「生きる意味などない」とかいうヤツも多い。
別に、もともと意味などない。
しかし
意味とか?なんだ?そりゃ?である。
考えてもいないのに、考えたフリをするもんじゃぁない。
「人生をどう考えるか?」
「世界をどう見るか?」
「歴史ってなんだろか?」
わからなかったら、「わかっていそうな人」に聞いてみればいい。
それでもわからなかったら、他の人に聞いてみればいい。
聞いてもいないのに、結論するんじゃねぇよ。
ノックもしていねぇのに、「戸が開かない」とか言うんじゃねぇよ。
今回の3つの読書は、このようにして最初の一冊「日本の歴史をよみなおす」に戻ってくる。
特に「一遍聖絵」の読み解きがおもしろかった。
海人、山人、農人、工人、商人、、悪人、海賊、、、多様なありさまと自由について。。
たまには「痛てぇ」「痛てぇ」とビッコひきながら、読書もいいかも、、、でした。。。